
熊さん「氏神さんの境内に大きな碑が建ちましたな。ご隠居はん知ってはりまっか」 ご隠居はん「知らいでか。ありゃ、わたいが氏子総代会に頼んで建てて貰ろうたもんや」
熊さん「物好きなご隠居だんな。何んで『いきなががわ』(息長川)でんね。これ以上長生きして、また世の中に害毒に、なるのに まだ、長生きでも願うてはりまんのでっか」
ご隠居はん「あほ云いな。あれは息が長いと書くが、『いきなが』やのうて、『おきなが』と読むねんや。ちゃーんと振り仮名を彫り込んだあるのを、よう見なはれ」
熊さん「ヘー息が長いと書かいて、あれを『おきなががわ』と読むんでっか」
歴史好きで、年金暮らしのご隠居はんが長年掛けて調べ上げた万葉集に詠み込まれた息長川(おきなががわ)がこの辺りに流れ込んでいた事を書き残すために石碑を建て、そのお披露目の行事も終えたので、ほっと一息付いて、茶の間の炬燵でウトウトしている処に、近所の剽軽者・熊さんが現れます。
熊さん「今日はご隠居はん」
ご隠居はん「ハイハイ今日は」
「処で、なんや、熊さんえらい急いて何の用や」
落 語 やっぱり「いきなががわ」 息 長 川

ご隠居はんの歴史談義を聴く熊さん
「そやけど、長がーい名前でんな」
ご隠居はん「そうや。住吉ッさんは男神はん お三方と、神功皇后 言うて女神さんがお一方いたはるがな」
熊さん「そら、またややこし話で」 御隠居はん「そらまたなんで?」
熊さん「そらそうでんがな、ほん四―五年前、御隠居はんがグランシャトーのけばいおばはんと こうなって、三角であないややこしもんが四角やったらもっとややこしい」 御隠居はん「アホなこと言いなバチあたるで」「その神功皇后 やが、この神様は別名を息長足比売命(オキナガタラシヒメ)と
云うて、藤井寺市にある大きな世界遺産の古墳に祀られてはる応神天皇はんのお母はんや。朝鮮に出兵する際に戦の最中に子供が生まれんようにと、お腹に石を巻いて渡らはったんやが、凱旋し、九州で無事に皇子はんを生みはったので、航海安全と安産の神さんになってはんねんや」
熊さん「へーそうすると頭に石を巻くと御隠居はんみたいに、ええ知恵出ない--」 御隠居はん「これこれなにを口の悪い」
ご隠居はん「そんな事ない。息長は息長氏ちゅう氏族の名前で、足は弓から来た言葉やから、武力を意味するらしい。つまり、息長氏出身のお姫はんやが、軍隊を統率できた人が神さんになってはんのや」
熊さん「ヘー。男勝りのお姫はんでんな」 ご隠居はん「実はその息長足比売の縁ある人の子孫が平野の喜連と云う村に住み、毎年氾濫する馬池谷を治水しはったんで、川の名前を息長川と呼ばはったらしいんや」
熊さん「へー、そやけどご隠居はん。あの碑には『におどりの 息長川が絶えぬとも』と書いたありまっせ、そやから、この歌を詠みはった馬史国人(うまのふひとくにひと)はんは、川を泳いでる『におどり』が長ーいこと水に潜ってられるように、長生きをしとうに思おて書かはったんと違いまっか」
ご隠居はん「熊さんや、おまはんは判るとこだけ、拾い読みをするから、
そないに早とちりするんや。碑に書いたあるとこを始めから仕舞いまで、ちゃーんと読んでえや」 熊さん「そんのもん、忙しいさかい、ゆっくり読んでおれまへん。ご隠居はんこの際に絵解きしとおくなはれ」
ご隠居はん「やれやれ、わたいも二度同じことを言えんさかい、よう聞いときなはれ」
ここでご隠居はんは、さも重大な話をする様に座り直して、話り始める。
ご隠居はん「この石碑にある歌二首はなあ、万葉集と云うて日本で最初で 奈良時代の末頃にでけた歌集で、まとめたんは大伴家持と言われてる。
その四四五七番は大伴家持はんによって『住之江の 浜松が根の 下延(ば)へて 我が見る小野の 草な刈りそね』と詠まれたもんや。これに対して、その次の四四五八番は、先に云うた国人はんが詠まはったもんで『鳰鳥の(にほどりの) 息長川は 絶えぬとも 君に語らふ 言(こと)尽きめやも』と答えて詠いはったもんやが、その歌会の日の天平勝宝八年 西暦では756年のことやが 三月七日は旧暦で、これを新暦に替えると、四月十日で春二番や三番が吹き荒れる頃やねん。
実際に新暦の四月二日に大雨があったと『続日本紀』に書かれたあるから、国人はんの屋敷から見える息長川は水が一杯やったやろうと思うねやが、それを頭に置いてこの歌を読み解くと、これまで万葉集を研究してはる学者はんが云うてはることと、ころっと読みが変わってくるんや。そいで、わたいは世間の人々に本当の意味を知って貰いたいと考えてこの碑を建てた訳やねん。」
熊さん「へー大ぶ 難しなってきたけど、おもろおますな。ご隠居はんはその学者はんの意見と一体どない違いまんのや。」
ご隠居はんは、熊さんが意外にもこの歌の解釈で激しい争点になっている処に立ち入った事を尋ねて来たので、思わず緊張した顔立ちとなって、ゆっ
くりと話始める。
ご隠居はん「万葉集の学者はんは、息長川が遠い近江の国には流れているのに この喜連には流れてへんから、わたいの様に『目の前に大きな川があった』と考えてくれへんのや。困った事に喜連の馬池谷 息長川のことやが、この歌に詠まれた後に大洪水が繰返し起きたんで、その土石流で埋まってしもて、世間から忘れられてしもうたのや。それへさして元禄、宝永のころ、喜連の上手へ大和川が付け替えられて、川の水がひとっつも来んようなってしもて、川はない、水はないで だれもむかし息長川があった事に気ィつかなんだんやなァ、幸いな事に、喜連瓜破の辺りを発掘したはった考古学の先生が大きな谷跡 つまり馬池谷を見つけて、『これが息長川の水源とちゃうか』と教えて呉れはったので、わたいは自信をもって自分の説を言いふらしているんや。」
熊さん「ご隠居はん、息長川が河内の喜連にあった事はわかりましたが。家持はんが、『住之江の浜松・・・』と云うて、住吉さんの松と云うてはれへんのに、国人はんが『喜連の息長川』と答えて歌を詠むのは変な事とちゃいまっか」
ご隠居はん「熊さんは、相変わらず判ったとこだけ読んで、早とちりをすんのやな、おまはんは・・・」
「熊さんや、家持はんの歌のもう少し先を読むと、『浜松が枝の 下ばえて 吾が見る小野の草・・・』とあるやないか」 『これで、住之江の松の下の生えている草が、現在この喜連の歌会の場で私が見ている小野の草』と、家持はんの目線が、遠い西の住之江から、目の前に見える会場の庭に生えている草に大写しになって替わっているんや」
熊さん「へえー。和歌ちゅうもんは、おんなじ場所を、ぢーっと見てるんとチャイまっか。 忙しおまんあ」
ご隠居はん「そや。デジカメを見ても、遠い処を見ていた画面を、目線を」
替えずにすーっと近くに大きく写し出すのとおんなじや」
熊さん「ああ、判りました。ご隠居はん。『家持はんの目が住之江から、目の前にある庭の草に目が移る間に息長川が流れていた』と云う事でんな
ご隠居はん「熊さん。よー云うてくれた。そこで、国人はんが、『この大きな川が例え涸れる事が在っても、貴方と語り合う話題は尽きません』と歌って、『家持はん歓迎』のお返事をしはった訳やが」
熊さん「処で、問題の万葉集の学者はんは一体どないに云うてはりまんのや」
ご隠居はん「学者はんは喜連に息長川がないもんやから、わたいのような読み解きができないんや。そこで家持はんの歌にある『下ばえて』を『下心がある』とトンチンカンに読んでしもて『二人で秘め事をする隠れ草を刈らないで欲しい』ちゅう事になるんや。
熊さん「ヘー。そうやったら『誰かさんと誰かさんの 麦畑 チュッチュッしている・・・』の歌と同じでっか」 「ひよッとしたら国人はんはアレ
(ニューハーフの仕草)でっか
ご隠居はん「そやな、戦前の万葉集の学者はんには『直ぐまた来るから、この美しい草を刈らんとって』と読み解く人があったんやが、戦後は何でも色事にしてまう事がはやっているので、万葉集にもこんな読み解きがされるんやな。」
熊さん「成ーる程、ご隠居はんには『嘆かわしい事』と悩んではりまんのやな」
ご隠居はん「そもそも、家持はんが、歌の席から西向きに見える『住之江の松』を詠み込んではるご挨拶の歌に対して、これを受けている国人はんが、『遠おい東向きの近江の息長川を詠み込んだ歌をお返し しはる事はあらへん』とわたいは『歌の道の常識』と思とんやが」
熊さん「へー。もっともな話でんな。処でご隠居はん、そんな『歌の道』とやらを書いたある『虎の巻』みたいな本がありまんのか」
ご隠居はん「おまはんもそない思うんか。実はわたいの敵役も同じ事を言うて、『そんな行儀作法はわたいの造り物や』と抜(ぬかし)かしよんや」
熊さん「『戦後の行儀作法は地に落ちたもんやな』とご隠居さんは嘆いてはる事ばっかりでんな」
ご隠居はん「そやけど 嬉しい事に 最近喜連に住んではる歴史好きの坊んさんが、檀家から、先祖伝来の土地の古うい名前を聞き出して、『谷』や『さざなみ』『流れ町』等々の地名が『奈良時代まで流れていた広おい川があった事を裏付けしている』と説明してくれはったのや。
熊さん「その広ろーい川が息長川と云う事でんな」
ご隠居「そや、大きな川が難波宮から喜連までで、繋がっていて、家持はんが船で会場まで来はったと判る地図をわたいに呉れはった生野の歴史好きの人があって、わたいはそれに長がい事、気いが着かなんだんや。もっと早ように気い着かなあかんのやったんやが・・・。正に猫に小判や」
熊さん「ご隠居さんにも、猫に小判ちゅう事がおまんのか。そやけどその地図だけで 『家持はんが難波宮から船で歌会の席まで船で来はった』ちゅう事はどないに説明しまんねや」
ご隠居はん「これも最近になって『谷』ちゅう場所から、底が丸木船で腹が板張りの船が発掘されたんや。この船には人なら十二人、馬なら二頭は積めるとの事で、こんな船やったら家持はんも、船で難波宮から二時間もあったら喜連の会場に着く事がでけるんや。」
ここでご隠居は、万葉集にこの二首に続いて乗せられている歌の四首が、『船で川を遡っている際に家持はん達が思いついたのを、国人はん宅での歌会に詠まれたもんや』と云う喜連のお坊はんの意見を丁寧に熊さんに説明する。
処が、意外な事に熊さんは四四五七番の歌の前書きに孝謙天皇や聖武上皇と
光明皇太后の名前があり、河内に見えたとする説明書きに目を止める。
熊さん「そうすると、このお三人はんも同じ船で国人はんのお屋敷に来はりましたでんな」ともっともな事を言う。
ご隠居はん「家持はんが、この二首の歌の前書に書いてはる事によれば、三人の陛下はんが歌会に出席してはる様に読めるんで、わたいはその様に云うているんやけどな」
熊さん「確かに、ご隠居さんは以前そないな事を言うてはりましたな」
ご隠居さん「もう十年も前の事で、わたいはその様に信じていたんやが、どうもこれは間違いらしんや」
熊さん「ヘー。ご隠居でも間違いをしはりまんのでっか」
ご隠居はん「家持はんが、よっぽど国人はんのことが気にかかっていたと思うんやが、またそれが家持はんの歌にある『下ばえて』と云う一言でわかるんやが。
『家持はんはよっぽど三陛下を国人はんに会わせたかった』に違いないんや。そやさかいに、『直ぐまたあとで来るから、この草を刈らないでな』と挨拶しはった訳や。処がや、聖武上皇はんが歌会の八日前の四月二日の大雨に遭うて風邪を引きはって、その後で、色んな治療や きっと、ご祈祷もしはったんやが、新暦の六月四日にお隠れ遊ばしたもんで」
熊さん「聖武はんが、しょうむない、ええ年こいてかくれんぼ」
御隠居はん「アホなこと言いな、おこられるで、崩御しはった、死なはった言うこっちゃつまり『四月十日の歌会には出席してはれへん』ちゅう事になるんや」
熊さん「ご隠居はん。ほんならあんたはんの得意の『歌の行儀作法』とやら
で、この事は絵解きできまへんのでっか」
ご隠居はん「嫌な事を言う男やな。おまはんは・・・」
「実は国人はんの歌には『君に語らふ 言尽きめやも』と書いてあるんやが・・・。
この『君』やが、三陛下つまり、大君が座ってはる歌の席で、家持はんに対して『君』て呼べるんやろか」
熊さん「そうでんなァ『君の名は』てもう古い」
御隠居はん「その君とちがう、歌の作法から見たら、三陛下が居たはれへんからこそ、『君』と言えたと思うんや」
「十年前にはわたいも、この作法に気いが付かなんだので、しもた事を云うたもんやと悔やんどんやが・・・」
熊さん「何はともあれ、ご隠居はんの言い分が世間に認められて、この碑が建ったことは、めでたい事でんな」
ご隠居はん「そやねん。わたいも九十二才に為って、長生きした御蔭で、ヤット言い分が世間に認められて、石碑が建ったんやさかい。嬉しい事や。」
熊さん「ご隠居はん。やっぱりこの碑は『いきなががわ』でっせ。
ご隠居はん、長生きしなはれや・・・」
おしまい
この落語編纂の動機について
「古伝承を訪ねる会」の世話人である妹尾保雄氏が落語好きで、何事も「落語の落」に結び附ける人で、「私の息長川論文も落語で説明したら」と言って下さったので書き上げました。
残念ながら、妹尾氏は令和三年一月に急逝されたので、彼の意見を聞く事ができなくなりました。なお、九十二才の隠居さんは、息長川研究の同僚である三津井康純氏に仮託して梅本の歴史観を披露したものですが、同氏も平成三十一年に老衰死されたので、この落語の意見を聞く事ができません。
当ホームページには皆様方の忌憚のないご意見をお待ち申し上げます。
なお、本書に添付のイラストは、ご隠居と熊さん、家持・国人および鳰、船、草と松および息長川と屋敷は、それぞれの版権者から無償で引用の承認を戴いて描き上げたものです。
末筆ながら、御礼申しあげます。
梅本 雄三