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           五十間樋

 江戸時代、この地域の用水は ため池や狭山池に端を発する東除川によっていたが、宝永元年(1704)に大和川の付け替え工事が行われたため、水路が遮断されてしまい、用水の枯渇が心配された。

当時喜連村は東・中・西の三村からなっていたが、西喜連村の庄屋であった増池弥右衛門は大和川から水を取水し、用水に利することを考え 中喜連村庄屋伝右衛門・東喜連村庄屋重兵衛と相談を行った。 

しかし、三村の領主が異なることや長吉村や瓜破村など他村の領域を通ることから調整は難航を極めたが、三人の努力により ようやく実現に至り、工事が竣工したのは同年八月のことであった。

この用水樋は、長さ六十九間(125m)・堤外五十間(90m)あったので俗に「五十間樋」という。

   

   この説明板は当時の喜連村を通っていた水路の場所にある。

     平成十六年三月   平野区役所

​       註    3

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