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     1  図  喜連・瓜破の地形図
地形図に喜連川の明らかな痕跡がある

          「喜連・瓜破の地形図」により 

             (松原市の掲載許可を受けている)

 狭山池から東除川を水源とする「馬池谷」が「喜連」と「喜連川跡」の微高地がなければ、馬池谷が、この地に沿って、現在の喜連を北上していたので、この流れが「息長川に該当する」と推断できる。

    前掲書「大阪府全志」の168頁に、仲哀天皇が日本武尊の皇子 : 息長田別王を大々杼家の嫡子がない処から、皇子を下し、その息長田別王が「狭山池*の水を引いて、水田を開き、息長川を掘りて、末を淀川に注がしめた」と見える。

  *狭山池

1  図    喜連・瓜破の地形図

喜連瓜破の旧地形図に「馬池谷」は「喜連」と「喜連川跡」の微高地を流れ北上していた。この流れが「息長川に��該当する」と推断できる。

 考古学的通説では「狭山池は推古期に始まる」ので、「息長田別王の狭山池から水を引いた」ことは在り得ないとする反論者が多くあると考えられる。

しかし、狭山神社伝承では、「堤明神があって、古い狭山池の堤を守っていた」とあるので、崇神紀62年7月2日条に「河内狭山に池溝を開かしめ」と見え、垂仁記の后妃と皇子女之段に「印色入日子が狭山池を作る」とあるので、「現在の狭山池の少し上手に現在の狭山池よりも規模の小さい溜池が構築されていた。」と見るべきである。         

​  拡  大  図  

喜連瓜破の旧地形図に「馬池谷」は「喜連」と「喜連川跡」の微高地を流れ北上していた。この流れが「息長川に該当する」と推断できる。
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